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2020.11.24

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続〜〜〜・写真集とかのススメ

はい、こんばんはー

今回のお相手は私和田ですこんばんはー

さて今回はですね、沢村賞の話を……したいところですが、グッとこらえましてね、日本シリーズの話を……ググっとこらえましてね、野球の話をグググっとこらえましてね、今回も写真の話をこらえずにしたいと思います。

まずですね、前々前世から告知してる若手写真家さんの話ですが、ちょっと未だに手元に写真集が揃わないことと、読み解くのが非常に難しいので、グッとこらえてまたいつかいいタイミングがきたら書きたいと思います。

今回グッとお話する写真はこちらです。

こちらはですね、写真家の河野幸人さんの写真です。

コロナ禍の6月から8月までの期間に、河野さんが運営する金沢市にあるIACKにて開催された写真展の中で展示されていた1枚になります。

展示は通常の展示ではなく、一切の光が入ってこない暗闇の中に写真が展示されていて、時折瞬くストロボの光によってのみ見ることができるインスタレーション的な展示方法でした。

以下の文章はステイトメントを一部抜粋したものです。全文はこちら

 

“今回使用している写真は、2014年にアムステルダムのウェアハウス・パーティー(巨大な倉庫で開催されるクラブイベント)で撮影さ れた。特に作品撮りをする意図もなく、また普段使用している機材も手元になかったため、コンパクト・デジタルカメラの光学ズーム を最大限まで使用し(7.1倍、35mm判換算で200mm 相当)、頭上にカメラをかざしながらストロボを焚いてランダムに撮影を行った。 展示会場に設置されたストロボはその状況を再現する側面もあるが、最大の意図は写真を鑑賞することを拒絶すること、そして暗闇の 中であらゆる境界をボカすことにある。写真家は必ずしもファインダーを覗いて、カメラを介した撮影者と被写体という構図を成立さ せる必要もないし、移動することがなくても作品を提示することができるはずだ。集まるとはどのようなことか、場はどのような意味 を持つのか、そして境界が可視化される時代にぼくたちはどのように移動を行い、他者と共存し得るのだろうか。暗闇の中でイメージ に囲まれ、改めてそのことについて考えてみたいと思う。”

 

今回このインスタレーションを見て考えたのはやはり人と人との距離、その距離が持っていた意味についてです。

コロナ禍で私達は人と人との境界を無理矢理可視化されました。

まさかこんなにも「人と会う」という当たり前だった行為を欲する日が来るとは思ってもいませんでした。

そして、ステイトメントの後半に記述がありましたが、そんな中毎日顔を合わせて会話をし食事をする家族。その家族と過ごす時間にマスクをつけることはありませんでした。

何故か?

ここにあらゆる境界が可視化された現代での「共存」についての重要なヒントがあると河野さんは書いています。

この答えは考えていきたいですね。

 

そして、人と人との距離に関して考えた時に、人は人と触れ合わなければ生きていけないのだとも感じました。

しかし、触れ合うことが気軽に行えない今、1番大きな問題だと感じたのが、臨終の時です。

1人の人間が一生を終えるその瞬間にそばにいることすらできない。

これは中々に残酷で残される人は気持ちの整理をつけるのが難しいのではないかと思います。

人は生まれた瞬間から決まっていることが1つだけあります。

それは「いつか死ぬ」ということです。

私達は常に死に向かって歩み、死を無意識下で意識しています。

その死がこういう終わり方で本当にいいのだろうか。

そう思うとねー、ほんとは無理矢理にでも最後会ってあげるべきだったのかとか思うんだけどダメだしねーでも迷惑かけるのは百も承知だけど無理矢理会うんだっていう人がいてもおれは責められないかもしれない。

 

そして死ぬ人は、数日前までは元気だった人も沢山いたはずで、まさか人生の最後がこんなカタチになるとは想像もしていなかったと思います。

ここで1つ、絶対だと信じられていたことが崩れたように思います。

それは「健康で長生きする」ということです。

いくら健康でもこういうことが起きる、いくら長生きしたとしてもこういう最後を迎えるかもしれない。

子どもの頃は、何故生きてるなんて全然わからず、ただ毎日遊んでいて、大人になったら仕事のため、結婚したら家族のために生きているという答えが一般的なんじゃないでしょうか?

これは別に間違っているとは思いませんし、実際僕も長生きしたいし健康でいたいし家族のために生きています。

しかし、それは家族の中で父という役割の中での言葉なのではないかとこの展示を見た後に色々考えている中で思いました。

じゃあ一個人、1人の人間としての和田康平は何故生きているのか、何のために生きるのか。

この問いを見つけることはもしかしてとても大事なことなのではないかと思いました。

コロナ禍において炙り出された境界の中にはblack lives matterのような差別という境界もあると思います。

他にもLGBTや貧困、格差など様々な問題も山積みの中で起こったコロナ。

「共存」という大きなテーマに向かって、一人一人がどのような社会を望み、どのように人々と接し、どのようなに生きていきたいかをあらためて考える時期にきたのかもしれません。